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871頁
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 問うていわく、念仏の行者は十八の願に帰して往生をえ、諸行の行人は十九の願をたのみて来迎にあずかるといいて、各別にこころうることしかるべからず。そのゆえは念仏の行者の往生をうというは、往生よりさきには来迎にあずかるべし。諸行の行人の来迎にあずかるというは、来迎ののちには往生をうべし。なんぞ各別にこころうべきや。
 こたえていわく、親鸞聖人の御意をうかがうに、念仏の行者の往生をうるというは、化仏の来迎にあずからず。もしあずかるというは、報仏の来迎なり。これ摂取不捨の益なり。諸行の行人の来迎にあずかるというは、真実の往生をとげず。もしとぐるというも、これ胎生・辺地の往生なり。念仏と諸行と、ひとつにあらざれば、往生と来迎と、またおなじかるべからず。しかれば、他力真実の行人は、第十八の願の信心をえて、第十一の必至滅度の願の果をうるなり。これを念仏往生という。これ真実報土の往生なり。この往生は一念帰命のときさだまりて、かならず滅度にいたるべきくらいをうるなり。このゆえに聖人の『浄土文類聚鈔』にいわく、「必至無上浄信暁 三有生死之雲晴 清浄無碍光耀朗 一如法界真身顕」といえり。文のこころは、「かならず無上浄信のあかつきにいたれば、三有生死のくも、はる。清浄無碍の光耀ほがらかにして、一如法界の真身あらわる」となり。「三有生死のくも、はる」というは、三界流転の業用、よこさまにたえぬとなり。「一如法界の真身あらわる」というは、寂滅無為の一理をひそかに証すとなり。しかれども、煩悩におおわれ業縛にさえられて、いまだその理をあらわさず。しかるにこの