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なり。まず序題門の釈には「言弘願者如大経説 一切善悪凡夫得生者 莫不皆乗阿弥陀仏大願業力 為増上縁」といえり。こころは、「弘願というは『大経』にとくがごとし。一切善悪の凡夫、うまるることをうるものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて、増上縁とせずということなし」となり。これ十八の願のこころなり。つぎに二乗門の釈には「若我得仏 十方衆生 称我名号 願生我国 下至十念 若不生者 不取正覚」といえり。また『往生礼讃』には「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」といい、『観念法門』には「若我成仏 十方衆生 願生我国 称我名字 下至十声 乗我願力 若不生者 不取正覚」といえり。これらの文、そのことば、すこしき加減ありといえども、そのこころ、おおきにおなじ。文のこころは、「もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わがくにに生ぜんと願じて、わが名字を称すること、しも十声にいたらん。わが願力に乗じて、もしうまれずは、正覚をとらじ」となり。あるいは「称我名号」といい、あるいは「乗我願力」といえる、これらのことばは本経になけれども、義としてあるべきがゆえに、和尚(同)この句をくわえられたり。しかれば、来迎の益も、もしまことに念仏の益にして、この願のなかにあるべきならば、もっともこれらの引文のなかに、これをのせらるべし。しかるにその文なきがゆえに、来迎は念仏の益にあらずとしらるるなり。処々の解釈においては来迎を釈すというとも、十八の願の益と釈せられずは、その義、相違あるべからず。