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い、「菩薩の勝法もききがたし」といいて、そのほかに「善知識にあい法をきくこともかたし」といえるは、仏・菩薩のほかにも衆生のために法をきかしめんひとをば善知識というべしときこえたり。またまさしくみずから法をときてきかするひとならねども、法をきかする縁となるひとをも善知識となづく。いわゆる「妙荘厳王の雲雷音王仏にあいたてまつり、邪見をひるがえし仏道をなり、二子夫人の引導によりしをば、かの三人をさして善知識ととけり。」また法花三昧の行人の五縁具足のなかに、「得善知識」といえるも、行者のために依怙となるひとをさすとみえたり。されば善知識は諸仏・菩薩なり。諸仏・菩薩の総体は阿弥陀如来なり。その智恵をつたえ、その法をうけて、直にもあたえ、またしれらんひとにみちびきて法をきかしめんは、みな善知識なるべし。しかれば仏法をききて生死をはなるべきみなもとは、ただ善知識なり。このゆえに『教行証文類』の第六に、諸経の文をひきて善知識の徳をあげられたり。いわゆる『涅槃経』には「一切梵行の因は善知識なり、一切梵行の因無量なりといえども、善知識をとけばすなわちすでに摂在しぬ」といい、『華厳経』には「なんじ善知識を念ぜよ、われを生ずること父母のごとし、われをやしなうこと乳母のごとし、菩薩分を増長す」といえり。このゆえに、ひとたびそのひとにしたがいて仏法を行ぜんひとは、ながくそのひとをまもりてかのおしえを信ずべきなり。

浄土真要鈔 広末

永享十年 戊午 八月十五日奉書写之畢