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877頁
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されば真実の善知識は仏・菩薩なるべしとみえたり。しからば仏・菩薩のほかには善知識はあるまじきかとおぼゆるに、それにはかぎるべからず。すなわち、『大経』の下巻に仏法のあいがたきことをとくとして、「如来興世 難値難見 諸仏経道 難得難聞 菩薩勝法 諸波羅蜜 得聞亦難 遇善知識 聞法能行 此亦為難」といえり。文のこころは、「如来の興世あいがたく、みたてまつりがたし。諸仏の経道えがたく、ききがたし。菩薩の勝法・諸波羅蜜きくことをうることまたかたし。善知識にあいて法をきき、よく行ずること、これまたかたしとす」となり。されば「如来にもあいたてまつりがたし」といい、「菩薩の勝法もききがたし」といいて、そのほかに「善知識にあい法をきくこともかたし」といえるは、仏・菩薩のほかにも衆生のために法をきかしめんひとをば、善知識というべしときこえたり。またまさしくみずから法をときてきかするひとならねども、法をきかする縁となるひとをも善知識となづく。いわゆる「妙荘厳王の、雲雷音王仏にあいたてまつり、邪見をひるがえし仏道をなり、二子夫人の引導によりしをば、かの三人をさして善知識ととけり。」(法華経)また法花三昧の行人の五縁具足のなかに、「得善知識」(摩訶止観)といえるも、行者のために依怙となるひとをさすとみえたり。されば善知識は諸仏・菩薩なり。諸仏・菩薩の総体は阿弥陀如来なり。その智恵をつたえ、その法をうけて、直にもあたえ、またしれらんひとにみちびきて法をきかしめんは、みな善知識なるべし。しかれば仏法をききて生死をはなるべきみなもとは、ただ善知識なり。このゆえに『教行証文類』の第六(化身土巻)に、諸経の文をひきて善知識の徳をあげられたり。