巻次 下末 735頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 いけり。其の比、常陸国那荷西郡大部郷に、平太郎なにがしという庶民あり。聖人の御訓を信じて、専ら弐なかりき。しかるに、或時、件の平太郎、所務に駈られて熊野に詣すべしとて、事のよしをたずね申さんために、聖人へまいりたるに仰せられて云わく、「それ、聖教万差なり。いずれも機に相応すれば巨益あり。但、末法の今時、聖道の修行におきては成ずべからず。すなわち「我末法時中億々衆生起行修道未有一人得者」(安楽集)といい、「唯有浄土一門可通入路」(同)と云々 此皆、経釈の明文、如来の金言なり。しかるに今、唯有浄土の真説に就きて、忝く彼の三国の祖師、各此の一宗を興行す。所以、愚禿勧るところ、更にわたくしなし。しかるに一向専念の義は往生の肝腑、自宗の骨目なり。すなわち、三経に隠顕ありといえども、文と云い、義と云い共に明らかなるをや。『大経』の三輩にも、一向と勧めて、流通にはこれを弥勒に附属し、『観経』の九品にも、しばらく三心と説きて、これまた阿難に附属す、『小経』の一心ついに諸仏これを証誠す。之によって、論主一心と判じ、和尚一向と釈す。しかればすなわち、何の文によりて、専修の義、立すべからざるぞや。証誠殿の本地すなわちいまの教主なり。故に、とてもかくても、衆生に結縁の心ざしふかきによりて、和光の垂跡をとどめたまう。垂跡をとどむる本意、ただ結縁の群類をして願海に引入せんとなり。しかあれば、本地の誓願を信じて偏に念仏をこととせん輩、公務にもしたがい、領主にも駈仕して、其の霊地をふみ、その社廟に詣せんこと、更に自心の発起するところにあらず。しかれば垂跡におきて、内懐虚仮の身たりながら、あながちに賢善精進の威儀を標すべからず。唯、本地の誓約にまかすべし、穴賢穴賢、神威をかろしむるにあらず、努力努力冥眦をめぐらし給うべからず」と云々 これによりて平太 紙面画像を印刷 前のページ p735 次のページ 第二版p890・891へ このページの先頭に戻る