巻次 - 749頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 「重誓名声聞十方」というは、弥陀如来、仏道をなりましまさんに、名声十方にきこえざるところあらば、正覚をならじとちかいましますといえるこころなり。「普放無量無辺光」というより「超日月光」というにいたるまでは、これ十二光仏の一々の御名なり。「無量光仏」というは、利益の長遠なることをあらわす、過現未来にわたりて限量なし、かずとしてさらにひとしきかずなきがゆえなり。「無辺光仏」というは、照用の広大なる徳をあらわす、十方世界をつくしてさらに辺際なし、縁としててらさずということなきがゆえなり。「無碍光仏」というは、神光の障碍なき相をあらわす、人法としてよくさうることなきがゆえなり。碍において内外の二障あり。外障というは山河大地雲霧煙霞等なり、内障というは、貪瞋痴慢等なり。「光雲無碍如虚空」(讃弥陀偈)の徳あれば、よろずの外障にさえられず、「諸邪業繫無能碍者」(定善義)のちからあれば、もろもろの内障にさえられず、かるがゆえに天親菩薩は、「尽十方無碍光如来」(願生偈)とほめたまえり。「無対光仏」というは、ひかりとしてこれに相対すべきものなし、もろもろの菩薩のおよぶところにあらざるがゆえなり。「炎王光仏」というは、または「光炎王仏」と号す。光明自在にして、無上なるがゆえなり。『大経』に「猶如火王 焼滅一切煩悩薪故」ととけるは、このひかりの徳を嘆ずるなり。火をもってたきぎをやくにつくさずということなきがごとく、光明の智慧をもって煩悩のたきぎをやくに、さらに滅せずということなし。三途黒闇の衆生も光照をこうぶり解脱をうるは、このひかりの益なり。「清浄光仏」というは、無貪の善根より生ず、かるがゆえにこのひかりをもって衆生の貪欲を治するなり。「歓喜光仏」というは、無瞋の善根より生ず、かるがゆえにこのひかりをもって衆生の瞋恚を滅するなり。「智慧光仏」というは、無痴の善根より生 紙面画像を印刷 前のページ p749 次のページ 第二版p907・908へ このページの先頭に戻る