巻次
第一帖
763頁
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ために、わがいのちあらんかぎりは、報謝のためとおもいて、念仏もうすべきなり。これを当流の安心決定したる、信心の行者とはもうすべきなり。あなかしこ、あなかしこ。

文明三年十二月十八日

4 「そもそも、親鸞聖人の一流においては、平生業成の義にして、来迎をも執せられそうらわぬよし、うけたまわりおよびそうろうは、いかがはんべるべきや。その平生業成ともうすことも、不来迎なんどの義をもさらに存知せず。くわしく聴聞つかまつりたく候う。」
 答えていわく、「まことに、この不審、もっとももって、一流の肝要とおぼえそうろう。おおよそ当家には、「一念発起 平生業成」と談じて、平生に、弥陀如来の本願の、われらをたすけたまうことわりをききひらくことは、宿善の開発によるがゆえなりとこころえてのちは、わがちからにてはなかりけり、仏智他力の御さずけによりて、本願の由来を存知するものなりとこころうるが、すなわち平生業成の義なり。されば、平生業成というは、いまのことわりをききひらきて、往生治定とおもいさだむるくらいを、「一念発起住正定聚」とも「平生業成」とも「即得往生住不退転」ともいうなり。」
 問うていわく、「一念往生発起の義くわしくこころえられたり。しかれども、不来迎の義いまだ分別せずそうろう。ねんごろにしめしうけたまわるべく候う。」
 答えていわく、「不来迎のことも、「一念発起住正定聚」と沙汰せられそうろうときは、さらに来迎を期しそうろうべきこともなきなり。そのゆえは、来迎を期するなんどもうすことは、諸行の機にとりてのことなり。