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第一帖
924頁
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んとちかいまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませとおもうこころの一念の信まことなれば、かならず如来の御たすけにあずかるものなり。このうえには、なにとこころえて念仏もうすべきぞなれば、往生はいまの信力によりて、御たすけありつるかたじけなき御恩報謝のために、わがいのちあらんかぎりは、報謝のためとおもいて、念仏もうすべきなり。これを当流の安心決定したる信心の行者とはもうすべきなり。あなかしこ、あなかしこ。

文明三年十二月十八日

(四) 抑も、親鸞聖人の一流においては、平生業成の義にして、来迎をも執せられそうらわぬよし、うけたまわりおよびそうろうは、いかがはんべるべきや。その平生業成ともうすことも、不来迎なんどの義をも、さらに存知せず。くわしく聴聞つかまつりたく候う。
 答えていわく、まことに、この不審、もっとももって一流の肝要とおぼえそうろう。おおよそ当家には、一念発起平生業成と談じて、平生に、弥陀如来の本願の、われらをたすけたまうことわりをききひらくことは、宿善の開発によるがゆえなりとこころえてのちは、わがちからにてはなかりけり、仏智他力の御さずけによりて、本願の由来を存知するものなりとこころうるが、すなわち平生業成の義なり。されば、平生業成というは、いまのことわりをききひらきて、往生治定とおもいさだむるくらいを、「一念発起住正定聚」(論註)とも、「平生業成」とも、「即得往生住不