巻次
第一帖
925頁
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退転」(大経)ともいうなり。
 問うていわく、一念往生発起の義くわしくこころえられたり。しかれども、不来迎の義いまだ分別せずそうろう。ねんごろにしめし、うけたまわるべく候う。
 答えていわく、不来迎のことも、「一念発起住正定聚」と沙汰せられそうろうときは、さらに来迎を期しそうろうべきこともなきなり。そのゆえは、来迎を期するなんどもうすことは、諸行の機にとりてのことなり。真実信心の行者は、一念発起するところにて、やがて摂取不捨の光益にあずかるときは、来迎までもなきなりとしらるるなり。されば、聖人のおおせには、「来迎は諸行往生にあり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに、正定聚に住す。正定聚に住するがゆえに、かならず滅度にいたる。かるがゆえに臨終まつことなし、来迎たのむことなし」(末燈鈔)といえり。この御ことばをもってこころうべきものなり。
 問うていわく、正定聚と滅度とは、一益とこころうべきか、また二益とこころうべきや。
 答えていわく、一念発起のかたは正定聚なり。これは穢土の益なり。つぎに、滅度は浄土にてうべき益にてあるなりとこころうべきなり。されば、二益なりとおもうべきものなり。
 問うていわく、かくのごとくこころえそうろうときは、往生は治定と存じおき候うに、なにとて、わずらわしく、信心を具すべきなんど沙汰そうろうは、いかがこころえはんべるべきや。これもうけたまわりたく候う。