巻次 第一帖 926頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 答えていわく、まことにもって、このたずねのむね肝要なり。されば、いまのごとくにこころえそうろうすがたこそ、すなわち信心決定のこころにて候うなり。 問うていわく、信心決定するすがた、すなわち平生業成と不来迎と正定聚との道理にて候うよし、分明に聴聞つかまつり候いおわりぬ。しかりといえども、信心治定してののちには、自身の往生極楽のためとこころえて念仏もうしそうろうべきか、また仏恩報謝のためとこころうべきか、いまだそのこころをえずそうろう。 答えていわく、この不審また肝要とこそおぼえそうらえ。そのゆえは、一念の信心発得已後の念仏をば、自身往生の業とはおもうべからず。ただひとえに仏恩報謝のためとこころえらるべきものなり。されば、善導和尚の「上尽一形下至一念」(散善義)と釈せり。「下至一念」というは、信心決定のすがたなり。「上尽一形」は、仏恩報尽の念仏なりときこえたり。これをもって、よくよくこころえらるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。文明四年十一月二十七日(五) 抑も、当年より、ことのほか、加州・能登・越中、両三か国のあいだより、道俗男女、群集をなして、この吉崎の山中に参詣せらるる面々の心中のとおり、いかがと、こころもとなくそうろう。そのゆえは、まず当流のおもむきは、このたび極楽に往生すべきことわりは、他力の信心をえたるがゆえなり。しかれども、この一流のうちにおいて、しかしかとその信心のすがたをも、 紙面画像を印刷 前のページ p926 次のページ 初版p764・765へ このページの先頭に戻る