巻次
第一帖
764頁
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真実信心の行者は、一念発起するところにて、やがて摂取不捨の光益にあずかるときは、来迎までもなきなりとしらるるなり。されば、聖人のおおせには「来迎は諸行往生にあり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに、正定聚に住す。正定聚に住するがゆえに、かならず滅度にいたる。かるがゆえに臨終まつことなし。来迎たのむことなし」(末燈鈔意)といえり。この御ことばをもってこころうべきものなり。」
 問うていわく、「正定聚と滅度とは、一益とこころうべきか、また二益とこころうべきや。」
 答えていわく、「一念発起のかたは正定聚なり。これは穢土の益なり。つぎに、滅度は浄土にてうべき益にてあるなりとこころうべきなり。されば、二益なりとおもうべきものなり。」
 問うていわく、「かくのごとくこころえそうろうときは、往生は治定と存じおき候うに、なにとて、わずらわしく、信心を具すべきなんど沙汰そうろうは、いかがこころえはんべるべきや。これもうけたまわりたく候う。」
 答えていわく、「まことにもって、このたずねのむね肝要なり。されば、いまのごとくにこころえそうろうすがたこそ、すなわち信心決定のこころにて候うなり。」
 問うていわく、「信心決定するすがた、すなわち平生業成と不来迎と正定聚との道理にて候うよし、分明に聴聞つかまつり候いおわりぬ。しかりといえども、信心治定してののちには、自身の往生極楽のためとこころえて念仏もうしそうろうべきか、また仏恩報謝のためとこころうべきか、いまだそのこころをえずそうろう。」