巻次
第二帖
779頁
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ための、出立なり。この信心を獲得せずは、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。これによりて、その信心をとらんずるようはいかんというに、それ弥陀如来一仏をふかくたのみたてまつりて、自余の諸善万行にこころをかけず、また諸神諸菩薩において今生のいのりをのみなせるこころをうしない、またわろき自力なんどいうひがおもいをもなげすてて、弥陀を一心一向に信楽して、ふたごころのなきひとを、弥陀は、かならず遍照の光明をもって、そのひとを摂取してすてたまわざるものなり。かように信をとるうえには、ねてもおきても、つねにもうす念仏は、かの弥陀のわれらをたすけたまう御恩を、報じたてまつる念仏なりとこころうべし。かようにこころえたるひとをこそ、まことに当流の信心をよくとりたる正義とはいうべきものなり。このほかになお信心ということのありというひと、これあらば、おおきなるあやまりなり。すべて承引すべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 いまこの文にしるすところのおもむきは、当流の親鸞聖人すすめたまえる信心の正義なり。この分をよくよくこころえたらんひとびとは、あいかまえて他宗他人に対してこの信心のようを沙汰すべからず。また、自余の一切の仏菩薩ならびに諸神等をも、わが信ぜぬばかりなり、あながちにこれをかろしむべからず。これまことに弥陀一仏の功徳のうちに、みな一切の諸神はこもれりとおもうべきものなり。総じて一切の諸法においてそしりをなすべからず。これをもって当流のおきてをよくまもれるひととなづくべし。されば聖人のいわく、「たとい牛ぬすびととはいわるとも、もしは後世者、もしは善人、もしは仏法者とみゆるようにふるまうべからず」(改邪鈔)とこそおおせられたり。このむねをよくよくこころえて、念仏