巻次
第二帖
941頁
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のちの代の しるしのために かきおきし のりのことの葉 かたみともなれ

(二) 抑も、開山聖人の御一流には、それ信心ということをもってさきとせられたり。その信心というはなにの用ぞというに、無善造悪のわれらがようなるあさましき凡夫が、たやすく弥陀の浄土へまいりなんずるための出立なり。この信心を獲得せずは、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。これによりて、その信心をとらんずるようはいかんというに、それ弥陀如来一仏をふかくたのみたてまつりて、自余の諸善万行にこころをかけず、また諸神・諸菩薩において今生のいのりをのみなせるこころをうしない、またわろき自力なんどいうひがおもいをもなげすてて、弥陀を一心一向に信楽して、ふたごころのなきひとを、弥陀はかならず遍照の光明をもって、そのひとを摂取してすてたまわざるものなり。かように信をとるうえには、ねてもおきても、つねにもうす念仏は、かの弥陀のわれらをたすけたまう御恩を報じたてまつる念仏なりとこころうべし。かようにこころえたるひとをこそ、まことに当流の信心をよくとりたる正義とはいうべきものなり。このほかになお信心ということのありというひと、これあらば、おおきなるあやまりなり。すべて承引すべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 いまこの文にしるすところのおもむきは、当流の親鸞聖人すすめたまえる信心の正義なり。この分をよくよくこころえたらんひとびとは、あいかまえて、他宗他人に対してこの信心のようを沙汰すべからず。また、自余の一切の仏・菩薩ならびに諸神等をも、わが信ぜぬばかりなり。