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ば、いわゆる聖道門の真言・仏心・天台・花厳等の断惑証理門のこころなるべし。善導の御釈によりてこれをこころうるに、信心にふたつの釈あり、ひとつには、「ふかく、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、煩悩具足し、善根薄少にして、つねに三界に流転して、曠劫よりこのかた出離の縁なしと信知すべし」とすすめて、つぎに「弥陀の誓願の深重なるをもって、かかる衆生をみちびきたまうと信知して、一念もうたがうこころなかれ」とすすめたまえり。このこころをえつれば、わがこころのわろきにつけても、弥陀の大悲のちかいこそ、あわれにめでたくたのもしけれ、とあおぐべきなり。もとよりわがちからにてまいらばこそ、わがこころのわろからんによりて、うたがうおもいをおこさめ。ひとえになんのうたがいかあらんとこころうるを、深心というなり。よくよくこころうべし。」
6 またあるひとのいわく、「曠劫よりこのかた、乃至今日まで、十悪・五逆・四重・謗法等のもろもろのつみをつくるゆえに、三界に流転していまに生死のすもりたり。かかる身のわずかに念仏すれども、愛欲のなみとこしなえにおこりて善心をけがし、瞋恚のほむらしきりにもえて功徳をやく。よきこころにてもうす念仏は万が一なり。その余はみなけがれたる念仏なり。されば切にねがうというとも、この念仏ものになるべしともおぼえず。ひとびともまた、さるこころをなおさずは、かなうまじともうすときに、げにもとおぼえて、まよいそうろうをば、いかがしそうろうべき。」
 師のいわく、「これはさきの信心をいまだこころえず。かるがゆえに、おもいわずらいてねがうこころもゆるになるというは、回向発願心のかけたるなり。善導の御こころによるに、「釈迦のおしえにしたがい、弥