巻次 - 1117頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 五 またある人いわく、「「念仏すれば、こえごえに無量生死のつみきえ、ひかりにてらされて、こころ柔軟になる」ととかれたるとかや。しかるに念仏して、としひさしくなりゆけども、三毒煩悩もすこしもきえず、こころもいよいよわるくなる。善心、日日にすすむこともなし。さるときに、仏の本願をうたがうにはあらねども、わがみのわるきこころねにては、たやすく往生ほどの大事をば、とげがたくこそ候え」と。 五 師のいわく、「このこと人ごとになげくこころねなり。まことにまよえるこころなり。わがみのつみによりて、往生をうたがうは、仏の本願をかるしむるにあらずや。これすなわち、信心のかけたるこころなり。これをいえば、さきの至誠心を、いまだこころえざるゆえなり。なんじ、こころをしずめてよくよくきくべし。このみにおいて、つみきえて、こころよくなるべしということは、ゆめゆめあるまじきことなり。さあらんにとりては、即身成仏にこそあんなれ。なん条の穢土をいといて浄土にうまれんというみちならんや。すべてつみ滅すというは、最後の一念にこそ、みをすてて、かの土に往生するをいうなり。さればこそ浄土宗とはなづけたれ。もしこのみにおいてつみきえはてなば、さとりひらけなん。さとりひらけなば、すなわち仏ならん。仏ならば、いわゆる聖道門の真言・仏心・天台・華厳等の断惑証理門のこころなるべし。 善導の御釈によりてこれをこころうるに、信心ふたつの釈あり。ひとつには「ふかく、みずからがみは現にこれ罪悪生死の凡夫、煩悩具足して善根薄少にして、つねに三界に流転して、曠劫 紙面画像を印刷 前のページ p1117 次のページ 初版p933・934へ このページの先頭に戻る