巻次 末 954頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 がえして、本家にかえれ」(往生礼讃)ともいい、「帰去来、魔郷にはとどまるべからず」(定善義)とも釈するなり。また『法事讃』に、「極楽無為涅槃界 随縁雑善恐難生 故使如来選要法 教念弥陀専復専」といえり。この文のこころは、極楽は無為無漏のさかいなれば、有為有漏の雑善にては、おそらくは、うまれがたし、無為無漏の念仏三昧に帰してぞ、無為常住の報土には生ずべき、というなり。まず、随縁の雑善というは、自力の行をさすなり。真実に仏法につきて、領解もあり信心もおこることはなくして、わがしたしきものの律僧にてあれば、戒は世にとうときことなりといい、あるいは、今生のいのりのためにも、真言をせさすれば結縁もむなしからず、真言とうとし、などいう体に、便宜にひかれて、縁にしたがいて修する善なるがゆえに、随縁の雑善ときらわるるなり。このくらいならば、たとい念仏の行なりとも、自力の念仏は随縁の雑善にひとしかるべきか。うちまかせて、ひとのおもえる念仏は、こころには、浄土の依正をも観念し、くちには名号をもとなうるときばかり念仏はあり、念ぜず、となえざるときは、念仏もなし、とおもえり。このくらいの念仏ならば、無為常住の念仏とはいいがたし。となうるときは、いでき、となえざるときは、うせば、またことに無常転変の念仏なり。無為とは、なすことなしとかけり。小乗には三無為といえり。そのなかに虚空無為というは、虚空はうすることもなく、はじめていでくることもなし。天然なることわりなり。大乗には真如法性等の常住不変の理を、無為と談ずるなり。序題門に、「法身常住 比若虚空」(玄義分)と釈せらるるも、かのくにの常住の益をあらわすなり。かるがゆえに、極楽を無為(常)住のくにというは、凡夫のなすによりて、うせもし、いできもすることのなきなり。念仏三昧もまたかくのごとし。衆生の念ずればとて、はじめていでき、わ 紙面画像を印刷 前のページ p954 次のページ 第二版p1141・1142へ このページの先頭に戻る