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するればとて、うする法にあらず。よくよくこのことわりをこころうべきなり。
 おおよそ念仏というは、仏を念ずとなり。仏を念ずというは、仏の、大願業力をもって衆生の生死のきずなをきりて、不退の報土に生ずべきいわれを成就したまえる功徳を、念仏して、帰命の本願に乗じぬれば、衆生の三業、仏体にもたれて仏果の正覚にのぼる。かるがゆえに、いまいうところの念仏三昧というは、われらが称礼念すれども、自の行にはあらず。ただこれ阿弥陀仏の行を行ずるなり、とこころうべし。本願というは五劫思惟の本願、業力というは兆載永劫の行業乃至十劫正覚ののちの仏果の万徳なり。この願行の功徳は、ひとえに未来悪世の無智のわれらがために、かわりて、はげみおこないたまいて、十方衆生のうえごとに生死のきずなきれはてて、不退の報土に願行円満せしとき、機法一体の正覚を成じたまいき。この正覚の体を念ずるを、念仏三昧というゆえに、さらに機の三業にはとどむべからず。うちまかせては、機よりしてこそ生死のきずなをきるべき行をもはげみ、報土にいるべき願行をもいとなむべきに、修因感果の道理にこえたる別異の弘願なるゆえに、仏の大願業力をもって凡夫の往生はしたため成じたまいけることのかたじけなさよ、と帰命すれば、衆生の三業は能業となりてうえにのせられ、弥陀の願力は所業となりて、われらが報仏報土へ生ずべきのりものとなりたまうなり。かるがゆえに、帰命の心、本願に乗じぬれば、三業みな仏体にもたる、というなり。仏の願行はさらに他のことにあらず。一向にわれらが往生の願行の体なるがゆえに、仏果の正覚のほかに往生の行を論ぜざるなり。このいわれをききながら、仏の正覚をば、おおやけものなるようにてさておいて、いかがして道心をもおこし、行をもいさぎよくして往生せんずる、とおもわんは、かなしかるべき執心なり。仏の