巻次 末 956頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 正覚、すなわち衆生の往生を成ぜる体なれば、仏体、すなわち往生の願なり、行なり。この行は、衆生の念・不念によるべき行にあらず。かるがゆえに、仏果の正覚のほかに往生の行を論ぜず、というなり。この正覚を心に領解するを三心とも信心ともいう。この機法一体の正覚は、名体不二なるゆえに、これをくちにとなうるを、南無阿弥陀仏という。かるがゆえに、心に信ずるも正覚の一念にかえり、くちにとなうるも正覚の一念にかえる。たとい千声となうとも、正覚の一念をばいずべからず。またものぐさく懈怠ならんときは、となえず念ぜずして、夜をあかし、日をくらすとも、他力の信心、本願にのりいなば、仏体すなわち長時の行なれば、さらにたゆむことなく間断なき行体なるゆえに、名号すなわち無為常住なり、とこころうるなり。「阿弥陀仏すなわちこれその行」(玄義分)といえる、このこころなり。またいまいうところの念仏三昧は、われらが称礼念すれども、自の行にはあらず。ただこれ阿弥陀仏の行を行ずるなり、というは、帰命の心、本願にのりて三業みな仏体のうえに乗じぬれば、身も仏をはなれたる身にあらず、こころも仏をはなれたるこころにあらず。くちに念ずるも機法一体の正覚のかたじけなさを称し、礼するも他力の恩徳の身にあまるうれしさを礼するゆえに、われらは称すれども、念ずれども、機の功をつのるにあらず。ただこれ阿弥陀仏の凡夫の行を成ぜしところを行ずるなり、というなり。仏体、無為無漏なり。依正、無為無漏なり。されば、名体不二のゆえに、名号もまた無為無漏なり。かるがゆえに、念仏三昧になりかえりて、もっぱらにしてまたもっぱらなれというなり。専の字、二重なり。まず、雑行をすてて正行をとる、これ、一重の専なり。そのうえに、助業をさしおきて正定業になりかえる、また、一重の専なり。また、はじめの専は一行なり、のちの専は一心なり。一行一心 紙面画像を印刷 前のページ p956 次のページ 第二版p1143・1144へ このページの先頭に戻る