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1143頁
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願行円満せしとき、機法一体の正覚を成じたまいき。この正覚の体を念ずるを、念仏三昧というゆえに、さらに機の三業にはとどむべからず。うちまかせては、機よりしてこそ生死のきずなをきるべき行をもはげみ、報土にいるべき願行をもいとなむべきに、修因感果の道理にこえたる別異の弘願なるゆえに、仏の大願業力をもって凡夫の往生はしたため成じたまいけることのかたじけなさよ、と帰命すれば、衆生の三業は能業となりて、うえにのせられ、弥陀の願力は所業となりて、われらが報仏報土へ生ずべきのりものとなりたまうなり。かるがゆえに、帰命の心、本願に乗じぬれば、三業みな仏体にもたるというなり。仏の願行はさらに他のことにあらず。一向にわれらが往生の願行の体なるがゆえに、仏果の正覚のほかに往生の行を論ぜざるなり。このいわれをききながら、仏の正覚をば、おおやけものなるようにてさておいて、いかがして道心をもおこし、行をもいさぎよくして往生せんずるとおもわんは、かなしかるべき執心なり。仏の正覚、すなわち衆生の往生を成ぜる体なれば、仏体、すなわち往生の願なり、行なり。この行は、衆生の念・不念によるべき行にあらず。かるがゆえに、仏果の正覚のほかに往生の行を論ぜずというなり。この正覚を心に領解するを三心とも信心ともいう。この機法一体の正覚は名体不二なるゆえに、これをくちにとなうるを南無阿弥陀仏という。かるがゆえに、心に信ずるも正覚の一念にかえり、くちにとなうるも正覚の一念にかえる。たとい千声となうとも、正覚の一念をばいずべからず。またものぐさく懈怠ならんときは、となえず念ぜずして、夜をあかし日をくらすとも、他力の信心、