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本願にのりいなば、仏体すなわち長時の行なれば、さらにたゆむことなく間断なき行体なるゆえに、名号すなわち無為常住なりとこころうるなり。「阿弥陀仏すなわちこれその行」(玄義分)といえる、このこころなり。
 またいまいうところの念仏三昧は、われらが称礼念すれども、自の行にはあらず。ただこれ阿弥陀仏の行を行ずるなりというは、帰命の心、本願にのりて、三業みな仏体のうえに乗じぬれば、身も仏をはなれたる身にあらず、こころも仏をはなれたるこころにあらず。くちに念ずるも機法一体の正覚のかたじけなさを称し、礼するも他力の恩徳の身にあまるうれしさを礼するゆえに、われらは称すれども念ずれども、機の功をつのるにあらず。ただこれ阿弥陀仏の、凡夫の行を成ぜしところを行ずるなりというなり。仏体、無為無漏なり。依正、無為無漏なり。されば、名体不二のゆえに、名号もまた無為無漏なり。かるがゆえに、念仏三昧になりかえりて、もっぱらにしてまたもっぱらなれというなり。専の字、二重なり。まず、雑行をすてて正行をとる、これ一重の専なり。そのうえに、助業をさしおきて正定業になりかえる、また一重の専なり。また、はじめの専は一行なり、のちの専は一心なり。一行一心なるを「専復専」(法事讃)というなり。この正定業の体は、機の三業のくらいの念仏にあらず、時節の久近をとわず、行住坐臥をえらばず、摂取不捨の仏体すなわち凡夫往生の正定業なるゆえに、名号も名体不二のゆえに正定業なり。この機法一体の南無阿弥陀仏になりかえるを、念仏三昧という。かるがゆえに、機の念・不念によらず、