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きことなり。釈尊も、いかばかりか往来娑婆八千遍の甲斐なきことをあわれみ、弥陀も、いかばかりか難化能化のしるしなきことをかなしみたまうらん。もし一人なりとも、かかる不思議の願行を信ずることあらば、まことに仏恩を報ずるなるべし。
 かるがゆえに『安楽集』には、「すでに他力の乗ずべきみちあり。つたなく自力にかかわりて、いたずらに火宅にあらんことをおもわざれ」といえり。このことまことなるかな。自力のひがおもいをあらためて、他力を信ずるところを、「ゆめゆめまよいをひるがえして本家にかえれ」(往生礼讃)ともいい、「帰去来、魔郷にはとどまるべからず」(定善義)とも釈するなり。また『法事讃』に、「極楽無為涅槃界 随縁雑善恐難生 故使如来選要法 教念弥陀専復専」といえり。この文のこころは、「極楽は無為無漏のさかいなれば、有為有漏の雑善にては、おそらくはうまれがたし。無為無漏の念仏三昧に帰してぞ、無為常住の報土には生ずべき」というなり。まず、「随縁の雑善」というは、自力の行をさすなり。真実に仏法につきて領解もあり、信心もおこることはなくして、わがしたしきものの、律僧にてあれば、戒は世にとうときことなりといい、あるいは、今生のいのりのためにも、真言をせさすれば結縁もむなしからず、真言とうとしなどいう体に、便宜にひかれて縁にしたがいて修する善なるがゆえに、随縁の雑善ときらわるるなり。このくらいならば、たとい念仏の行なりとも、自力の念仏は随縁の雑善にひとしかるべきか。うちまかせて、ひとのおもえる念仏は、こころには浄土の依正をも観念し、くちには名号をもとなうるときばかり念仏はあり、念