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非におよばず」と、御掟候いて、御落涙の御こと、かぎりなき御ことにそうろう。
(7)一 三河の教賢、伊勢の空賢とに対して、仰せに、「南無というは帰命、このこころは、御たすけそうらえとたのむなり。この帰命のこころ、やがて発願回向のこころを感ずるなり」とおおせそうろうなり。
(8)一 「他力の願行を、ひさしく身にたもちながら、よしなき自力の執心にほだされて、むなしく流転しけるなり」(安心決定鈔)とそうろうを、え存ぜずそうろうよし、もうしあげ候うところに、仰せに、「ききわけて、え信ぜぬもののことなり」と仰せそうらいき。
(9)一 「「弥陀大悲のむねのうちに、かの常没の衆生みちみちたる」(安心決定鈔)といえること、不審にそうろう」と、福田寺もうしあげられそうろう。仰せに、「仏心の蓮花は、むねにこそひらくべけれ、はらにあるべきや。「弥陀の身心の功徳、法界衆生の身のうち、こころのそこに、いりみつ」(同)ともあり。しかれば、ただ領解の心中をさしてのことなり」と仰せそうらいき。ありがたきよし、そうろうなり。
(10)一 十月二十八日の太夜に、のたまわく、「『正信偈』・『和讃』をよみて、仏にも聖人にもまいらせんとおもうか、あさましや。他宗には、つとめをして回向するなり。御流には、他力信心をよくしれとおぼしめして、聖人の『和讃』にそのこころをあそばされたり。ことに、七高僧の御ねんごろなる御釈のこころを、『和讃』にききつくるようにあそばされて、その恩をよくよく存知