巻次
-
1028頁
表示設定
ブックマーク
表示設定
文字サイズ
書体
  • ゴシック
  • 明朝
カラー
テキスト情報
本文
画像情報
画像情報
本文

して、あらとうとやと、念仏するは、仏恩の御ことを聖人の御前にてよろこびもうすこころなり」と、くれぐれ仰せそうらいき。
(11)一 聖教をよくおぼえたりとも、他力の安心を、しかと決定なくは、いたずらごとなり。弥陀をたのむところにて往生決定と信じて、ふたごころなく臨終までとおりそうらわば、往生すべきなり。
(12)一 明応三年十一月、報恩講の二十四日、あかつき八時におきて、聖人の御前参拝もうしてそうろうに、すこしねぶりそうろううちに、ゆめともうつつともわかず、空善、おがみもうし候うようは、御厨子のうしろより、わたをつつみひろげたるようなるうちより、上様(蓮如)あらわれ御出であるとおがみもうすところに、御相好、開山聖人にておわします。あら不思議やとおもい、やがて御厨子のうちをおがみもうせば、聖人、御坐なし。さては開山聖人、上様に現じましまして、御一流を御再興にて御坐候うと、もうしいだすべきと存ずるところに、慶聞坊の讃嘆に、聖人の御流義、「たとえば、木石の、縁をまちて火を生じ、瓦礫の、𨥉をすりて玉をなすがごとし」と、『御私記』(式文)のうえを讃嘆あるとおぼえて、ゆめさめてそうろう。さては開山聖人の御再誕と、それより信仰もうすことにそうらいき。
(13)一 教化するひと、まず信心をよく決定して、そのうえにて聖教をよみ、かたらば、きくひとも信をとるべし。