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ども、知識にすすめられて、帰命せしかば往生しき。また平生に帰命しつるひとは、いきながら摂取の益にあずかるゆえに、臨終にも、心顚倒せずして往生す。これを正念往生となづくるなり。また、帰命の信心おこりぬるうえは、たといこえにいださずしておわるとも、なお往生すべし。『法鼓経』にみえたり。これを意念往生というなり。されば、とにもかくにも、他力不思議の信心決定しぬれば、往生はうたがうべからざるものなり。
 一 『観仏三昧経』にのたまわく、「長者あり。一人のむすめあり。最後の処分に閻浮檀金をあたう。穢物につつみて、泥中にうずみておく。国王、群臣をつかわしてうばいとらんとす。この泥をばふみゆけども、しらずしてかえる。そののち、この女人とりいだしてあきなうに、さきよりもなお、富貴になる。」これはこれ、たとえなり。「国王」というは、わが身の心王にたとう。「たから」というは諸善にたとう。「群臣」というは、六賊にたとう。「かの六賊に諸善をうばいとられて、たつ方もなき」をば、出離の縁なきにたとう。「泥中よりこがねをとりいだして富貴自在になる」というは、念仏三昧によりて信心決定しぬれば、須臾に安楽の往生をうるにたとう。「穢物につつみて泥中におく」というは、五濁の凡夫、穢悪の女人を正機とするにたとうるなり。
 一 たきぎは火をつけつれば、はなるることなし。「たきぎ」は行者の心にたとう。「火」は弥陀の摂取不捨の光明にたとうるなり。心光に照護せられたてまつりぬれば、わが心をはなれて、仏心もなく、仏心をはなれて、わが心もなきものなり。これを南無阿弥陀仏とはなづけたり。