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く仏を供養せん。若し能く如法に仏を供養すれば、則ち能く念仏の心、動ぜず。若し能く念仏の心、動ぜざれば、則ち常に無量仏を覩見せん。若し常に無量仏を覩見すれば、則ち如来の体常住を見ん。若し如来の体常住を見れば、則ち能く法永く不滅なることを知らん。若し能く法永く不滅なるを知れば、弁才を得、無障碍を得ん。若し弁才無障碍を得れば、則ち能く無辺の法を開演せん。若し能く無辺の法を開演せば、則ち能く慈愍して衆生を度せん。若し能く衆生を慈愍し度すれば、則ち堅固の大悲心を得ん。若し堅固の大悲心を得れば、則ち能く甚深の法を愛楽せん。若し能く甚深の法を愛楽すれば、則ち能く有為の過を捨離せん。若し能く有為の過を捨離すれば、則ち憍慢及び放逸を離る。若し憍慢及び放逸を離るれば、則ち能く一切衆を兼利せん。若し能く一切衆を兼利すれば、則ち生死に処して疲厭無けん」となり。略抄
 『論註』に曰わく、「「如実修行相応」(論)と名づく。是の故に論主、建めに「我一心」(同)と言えり。」已上
 又言わく(論註)、「経の始めに「如是」と称することは、信を彰して能入とす。」已上

 次に「欲生」と言うは、則ち是れ、如来、諸有の群

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次言欲生者、則是如来招喚諸有群生之