巻次 - 655頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 たまう、取は、むかえとるともうすなり。おさめとりたまうとき、すなわち、とき・日をもへだてず、正定聚のくらいにつきさだまるを「往生をう」とはのたまえるなり。 しかれば、必至滅度の誓願を『大経』にときたまわく、「設我得仏 国中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覚」と願じたまえり。また『経』(如来会)にのたまわく、「若我成仏 国中有情 若不決定 成等正覚 証大涅槃者 不取菩提」とちかいたまえり。この願成就を、釈迦如来ときたまわく、「其有衆生 生彼国者 皆悉住於 正定之聚 所以者何 彼仏国中 無諸邪聚 及不定聚」(大経)とのたまえり。これらの文のこころは、「たといわれ仏をえたらんに、くにのうちの人天、定聚にも住して、かならず滅度にいたらずは、仏にならじ」とちかいたまえるこころなり。またのたまわく、「もしわれ仏にならんに、くにのうちの有情、もし決定して等正覚をなりて、大涅槃を証せずは、仏にならじ」とちかいたまえるなり。かくのごとく法蔵菩薩ちかいたまえるを、釈迦如来、五濁のわれらがためにときたまえる文のこころは、「それ衆生あって、かのくににうまれんとするものは、みなことごとく正定の聚に住す。ゆえはいかんとなれば、かの 紙面画像を印刷 前のページ p655 次のページ 初版p535・536へ このページの先頭に戻る