巻次 - 656頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 仏国のうちには、もろもろの邪聚および不定聚はなければなり」とのたまえり。この二尊の御のりをみたてまつるに、「すなわち往生す」とのたまえるは、正定聚のくらいにさだまるを「不退転に住す」とはのたまえるなり。このくらいにさだまりぬれば、かならず無上大涅槃にいたるべき身となるがゆえに、「等正覚をなる」ともとき、「阿毘抜致にいたる」(論註)とも、「阿惟越致にいたる」(易行品)ともときたまう。「即時入必定」(同)とももうすなり。 この真実信楽は、他力横超の金剛心なり。しかれば、念仏のひとをば、『大経』には「次如弥勒」とときたまえり。「弥勒」は、竪の金剛心の菩薩なり。竪ともうすは、たたさまともうすことばなり。これは聖道自力の難行道の人なり。横は、よこさまにというなり。超は、こえてというなり。これは仏の大願業力のふねに乗じぬれば、生死の大海をよこさまにこえて、真実報土のきしにつくなり。「次如弥勒」ともうすは、「次」は、ちかしという、つぎにという。ちかしというは、弥勒は大涅槃にいたりたまうべきひとなり。このゆえに、「弥勒のごとし」とのたまえり。念仏信心の人も大涅槃にちかづくとなり。つぎにというは、釈迦仏のつぎに、五十六億七千万歳をへて、妙覚のくらいにいたりたまうべしとなり。「如」は、ごとしという。ごとしというは、他力信楽のひとは、このよのうちにて、不退のくらいにのぼりて、かならず大般涅槃のさとりをひらかんこと、「弥勒のごとし」となり。 『浄土論』(論註)に曰わく、「『経』に言わく「若人但聞彼国土 清浄安楽 剋念願生 亦 紙面画像を印刷 前のページ p656 次のページ 初版p536へ このページの先頭に戻る