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ずかならず如来の誓願に住すと、悲願にみえたり。「設我得仏 国中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覚」(大経)とちかい給えり。正定聚に、信心の人は住し給えりとおぼしめし候いなば、行者のはからいのなきゆえに、「義なきを義とす」と、他力をば申すなり。善とも、悪とも、浄とも、穢とも、行者のはからいなきみとならせ給いて候えばこそ、「義なきを義とす」とは申すことにて候え。
 十七の願に、「わがなをとなえられん」(大経)とちかい給いて、十八の願に、「信心まことならば、もしうまれずは、仏にならじ」(同)とちかい給えり。十七・十八の悲願、みなまことならば、正定聚の願は、せんなく候うべきか。補処の弥勒におなじくらいに、信心の人は、ならせたまうゆえに、摂取不捨とはさだめられて候え。このゆえに、他力と申すは、行者のはからいのちりばかりもいらぬなり。かるがゆえに、「義なきを義とす」と申すなり。このほかに、またもうすべきことなし。「ただ、仏にまかせまいらせ給え」と、大師聖人(法然)のみことにて候え。

十一月十八日     親鸞

専信御坊御報