巻次
-
840頁
表示設定
ブックマーク
表示設定
文字サイズ
書体
  • ゴシック
  • 明朝
カラー
テキスト情報
本文
画像情報
画像情報
本文

るように談合するによりて、祖師の御己証もあらわれず、道俗男女、往生浄土のみちをもしらず、ただ世間浅近の無常講とかやのように諸人思いなすこと、心うきことなり。かつは、本師聖人の仰せに云わく、「某 親鸞 閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたうべし」と云々 これすなわち、この肉身をかろんじて仏法の信心を本とすべきよしをあらわしましますゆえなり。これをもっておもうに、いよいよ喪葬を一大事とすべきにあらず。もっとも停止すべし。
(17)一 おなじく祖師の御門流と号するやから、因果撥無と云う事を持言とすること、いわれなき事。
 それ三経のなかにこの名言を求むるに、『観経』に「深信因果」の文あり。もしこれをおもえるか。おおよそ、祖師聖人御相承の一義は、三経共に差別なしといえども、『観無量寿経』は機の真実をあらわして、所説の法は定散をおもてとせり。機の真実と云うは、五障の女人・悪人を本として、韋提を対機としたまえり。『大無量寿経』は深位の権機をもって同聞衆として、所説の法は凡夫出要の不思議をあらわせり。大師聖人の御相承はもっぱら『大経』にあり。『観経』所説の「深信因果」のことばをとらんこと、あながち甘心すべからず。たとい、かの『経』の名目をとるというとも、義理参差せばいよいよいわれなかるべし。そのゆえは、かの『経』の「深信因果」は、三福業の随一なり。この三福の業はまた人天有漏の業なり。就中に深信因果の道理によらば、あに凡夫往生ののぞみをとげんや。まず十悪において「上品に犯するものは地獄道に堕し、中品に犯するものは餓鬼道に堕し、下品に犯するものは畜生道におもむく」といえり。これ大乗の性