巻次
第四帖
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あなかしこ、あなかしこ。

文明十六年十一月二十一日

(八) 抑も、今月二十八日の報恩講は、昔年よりの流例たり。これによりて近国・遠国の門葉、報恩謝徳の懇志をはこぶところなり。二六時中の称名念仏、今古退転なし。これすなわち開山聖人の法流、一天四海の勧化、比類なきがいたすところなり。このゆえに、七昼夜の時節にあいあたり、不法不信の根機においては、往生浄土の信心、獲得せしむべきものなり。これしかしながら今月聖人の御正忌の報恩たるべし。しからざらんともがらにおいては、報恩謝徳のこころざしなきににたるものか。これによりて、このごろ真宗の念仏者と号するなかに、まことに心底より当流の安心決定なきあいだ、あるいは名聞、あるいはひとなみに報謝をいたすよしの風情これあり。もってのほか、しかるべからざる次第なり。そのゆえは、すでに万里の遠路をしのぎ、莫太の辛労をいたして、上洛のともがら、いたずらに名聞ひとなみの心中に住すること、口惜しき次第にあらずや。すこぶる不足の所存といいつべし。ただし無宿善の機にいたりてはちからおよばず。しかりといえども、無二の懺悔をいたし、一心の正念におもむかば、いかでか聖人の御本意に達せざらんものをや。
 一 諸国参詣のともがらのなかにおいて、在所をきらわず、いかなる大道・大路、又、関屋・渡の船中にても、さらにそのはばかりなく、仏法方の次第を顕露に人にかたること、しかるべからざる事。