巻次 化末 394頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 道として通ぜざるものなし、これを名づけて「菩提」とす。智として周からざるものなし、これを称して「仏陀」とす。この漢語をもってかの梵言を訳す。すなわち彼此の仏、照然として信ずべきなり。何をもってかこれを明かすとならば、それ「仏陀」は漢には「大覚」と言うなり。「菩提」をば漢には「大道」と言うなり。「涅槃」は漢には「無為」と言うなり。しかるに吾子、終日に菩提の地を践んで大道すなわち菩提の異号なることを知らず。形を大覚の境に禀けて、未だ大覚すなわち仏陀の訳名なることを閑わず。かるがゆえに荘周云わく、「また大覚あれば、後にその大夢を知るなり。」郭が『註』に云わく、「覚は聖人なり。言うこころは患、懐にあるはみな夢なり。」『註』に云わく、「夫子、子游と、未だ言うことを忘れて神解することあたわず、かるがゆえに大覚にあらざるなり。」君子の曰わく、「孔丘の談、ここにまた尽きぬ。」涅槃寂照、識として識るべからず、智をして智るべからず。すなわち言語断えて心行滅す、かるがゆえに言を忘るるなり。法身はすなわち三点・四徳の成ずるところ、蕭然として無累なり。かるがゆえに解脱と称す。これその神解として患息するなり。夫子、聖なりといえども、はるかにもって功を仏に推れり。いかんとなれば、劉向が古旧二録を案ずるに云わく、「仏流、中夏を経て一百五十年の後、老子方に五千文を説けり。然るに周と老と、並びに仏経の所説を見る。言教往往たり、験えつべし。」乃至 『正法念経』に云わく、人戒を持たざれば、諸天減少し、阿修羅盛なり。善龍力なし、悪龍力あり。悪龍力あれば、すなわち霜雹を降して、非時の暴風疾雨ありて、五穀登らず、疾疫競い起こり、人民飢饉す、たがいに相残害す。もし人、戒を持てば、多く諸天威光を増足す。修羅減少し、悪龍力なし、善龍力あり。善 紙面画像を印刷 前のページ p394 次のページ 第二版p466~468へ このページの先頭に戻る