巻次
化末
396頁
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めざるべけんや。乃至 陸修静が『目録』を指す、すでに正本なし。何ぞ謬の甚だしきをや。しかるに修静、目をなすこと、すでにこれ大偽なり。いま『玄都録』、またこれ偽の中の偽なり。乃至
 また云わく、『大経』(涅槃経)の中に説かく、「道に九十六種あり。ただ仏の一道これ正道なり、その余の九十五種においてはみなこれ外道なり」と。朕、外道を捨ててもって如来に事う。もし公郷ありて、よくこの誓いに入らん者は、おのおの菩薩の心を発すべし。老子・周公・孔子等、これ如来の弟子として化をなすといえども、すでに邪なり。ただこれ世間の善なり、凡を〓【kaku_a】てて聖と成ることあたわず。公郷・百官・侯王・宗室、宜しく偽を反し真に就き、邪を捨て正に入るべし。かるがゆえに経教『成実論』に説いて云わく、「もし外道に事えて心重く、仏法の心軽きはすなわちこれ邪見なり。もし心一等なる、これ無記にして善悪に当たらず。」仏に事えて心強くして、老子に心少なきは、すなわちこれ「清信」なり。「清信」と言うは、清はこれ表裏ともに浄く、垢穢惑累みな尽くす。「信」は、これ正を信じて邪ならざるがゆえに、「清信の仏弟子」と言う。その余、等しくみな邪見なり、清信と称することを得ざるなり。乃至 老子の邪風を捨てて、法の真教に入流せよとなり。已上抄出
 (法事讃)光明寺の和尚の云わく、上方の諸仏、恒沙のごとし。還りて舌相を舒べたまうことは、娑婆の十悪・五逆、多く疑謗し、邪を信じ、鬼に事え、神魔を餧かしめて、妄に想いて、恩を求めて福あらんと謂えば、災障禍横さまに転いよいよ多し、連年に病の床枕に臥す、聾・盲、脚折れ、手攣き撅る、神明に承事してこの報を得るもののためなり。いかんぞ捨てて弥陀を念ぜざらん、と。已上