巻次 化末 397頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 天台(智顗)の『法界次第』に云わく、一つには仏に帰依す。『経』(涅槃経)に云わく、「仏に帰依せん者、終に更ってその余のもろもろの外天神に帰依せざれ」となり。また云わく、「仏に帰依せん者、終に悪趣に堕せず」と云えり。二つには法に帰依す。謂わく、「大聖の所説、もしは教もしは理、帰依し修習せよ」となり。三つには僧に帰依す。謂わく、「心、家を出でたる三乗正行の伴に帰するがゆえに。」『経』(涅槃経)に云わく、「永く、また更って、その余のもろもろの外道に帰依せざるなり」と。已上 (楽邦文類)慈雲大師(遵式)の云わく、然るに祭祀の法は、天竺には「韋陀」、支那には「祀典」といえり。すでに未だ世を逃れず、真を論ずるは俗を誘うるの権方なり、と。文 (天台四教儀)高麗の観法師(諦観)の云わく、餓鬼道、梵語には闍黎多、この道また諸趣に遍す。福徳ある者は山林塚廟神と作る。福徳なき者は、不浄処に居し、飲食を得ず、常に鞭打を受く。河を塡ぎ海を塞ぎて、苦を受くること無量なり。諂誑の心意なり。下品の五逆・十悪を作りて、この道の身を感ず、と。已上 (四教儀集解)神智法師(従義)釈して云わく、餓鬼道は、常に飢えたるを「餓」と曰う、「鬼」の言は尸に帰す。『子』の曰わく、「古は人死と名づく、帰人とす。また天神を「鬼」と云う、地神を「祇」と曰うなり。」乃至 形あるいは人に似たり、あるいは獣等のごとし。心正直ならざれば、名づけて「諂誑」とす、と。 (盂蘭盆経疏新記)大智律師(元照)の云わく、神は謂わく鬼神なり。すべて四趣・天・修・鬼・獄に収む、と。 (観経扶新論)度律師(戒度)の云わく、魔はすなわち悪道の所収なり、と。 (摩訶止観)『止観』の魔事境に云わく、二つには、魔の発相を明かすには、管属に通じてみな称して魔とす。 紙面画像を印刷 前のページ p397 次のページ 第二版p470~472へ このページの先頭に戻る