巻次 上 434頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 と。文『諸仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経』に言わく、支謙三蔵訳「我般泥洹して去いて後、経道留止せんこと千歳せん。千歳の後経道断絶せん。我みな慈哀して特にこの経法を留めて、止住せんこと百歳せん。百歳の中に竟らん。乃し休止し断絶せん。心の所願にありてみな道を得べし」と。略出元照律師『阿弥陀経義疏』に云わく、大智律師也「「勢至章」に云わく、「十方の如来、衆生を憐念したまうこと、母の子を憶うがごとし」と。『大論』に云わく、「たとえば魚母のもし子を念わざれば、子すなわち壊爛する等のごとし」と。阿耨多羅、ここには無上と翻ず。三藐は正等と云う。三菩提は正覚と云う、すなわち仏果の号なり。薄地の凡夫、業惑に纒縛せられて五道に流転せること百千万劫なり。たちまちに浄土を聞きて、志願して生まれんと求む。一日名を称すれば、すなわちかの国に超う。諸仏護念して直ちに菩提に趣かしむ。謂うべし、万劫にも逢いがたし。千生に一たび誓いに遇えり。今日より未来を終尽すとも、在処にして讃揚し、多方にして勧誘せん。所感の身土・所化の機縁、阿弥陀と等しくして異あることなけん。この心極まりなし、ただ仏証知したまえ。このゆえに下に三たび信を勧む。我が語を信ずる者は、教を信ずと謂うなり。我が十方諸仏を信ぜざるがごとしと、あに虚妄なるをや」と。略出建長七歳乙卯八月廿七日書之 紙面画像を印刷 前のページ p434 次のページ 第二版p513・514へ このページの先頭に戻る