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蓮位に、「かくいれよ」と、おおせをかぶりて候えども、御自筆は、つよき証拠におぼしめされ候いぬと、おぼえ候うあいだ、おりふし、御がいびようにて御わずらいにわたらせたまい候えども、もうして候うなり。また、のぼりて候いし人々、「くにに論じもうす」とて、あるいは、「「弥勒とひとし」ともうし候う人々候う」よしを、もうし候いしかば、しるしおおせられて候うふみの候う。しるしてまいらせ候うなり。御覧あるべく候う。また、「弥勒とひとし」と候うは、弥勒は等覚の分なり。これは因位の分なり。これは十四・十五の月の円満したまうが、すでに八日・九日の月のいまだ円満したまわぬほどをもうし候うなり。これは自力修行のようなり。われらは信心決定の凡夫、くらい正定聚のくらいなり。これは因位なり。これ等覚の分なり。かれは自力なり、これは他力なり。自他のかわりこそ候えども、因位のくらいはひとしというなり。また弥勒の妙覚のさとりはおそく、われらが滅度にいたることはとく候わんずるなり。かれは五十六億七千万歳のあかつきを期し、これはちくまくをへだつるほどなり。かれは漸頓のなかの頓、これは頓のなかの頓なり。滅度というは妙覚なり。曇鸞の『註』にいわく、「樹あり、好堅樹という。この木、地の底に百年わだかまりいて、おうるとき一日に百丈おい候う」なるぞ。この木、地の底に百年候うは、我等が娑婆世界に候いて、正定聚のくらいに住する分なり。一日に百丈おい候うなるは、滅度にいたる分なり。これにたとえて候うなり。これは他力のようなり。松の生長するは、としごとに寸をすぎず。これはおそし、自力修行のようなり。また、如来とひとしというは、煩悩成就の凡夫、仏の心光にてらされまいらせて、信心歓喜す、信心歓喜するゆえに、正定聚のかずに住す、信心というは、智なり、この智は他力の光明に摂取せられまいらせぬるゆえに、うるところの智なり、仏の光明も智なり、かるがゆえに、おなじというなり。おなじというは、信心をひとしというなり。歓喜地というは、信心を歓喜するなり。わが信心を歓喜するゆえに、おなじというなり。くわしく御自筆にしるされて候うを、かきうつしてまいらせ候う。また、南無阿弥陀仏ともうし、また無碍光如来ととなえ候う御不審も、くわしく自筆に、御消息のそばにあそ