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末燈鈔

本願寺親鸞大師御己証 并 辺州所々御消息等類聚鈔

(一) 来迎は諸行往生にあり。自力の行者なるがゆえに。臨終ということは、諸行往生のひとにいうべし。いまだ、真実の信心をえざるがゆえなり。また、十悪五逆の罪人の、はじめて善知識におうて、すすめらるるときにいうことばなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに、正定聚のくらいに住す。このゆえに、臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき、往生またさだまるなり。来迎の儀式をまたず。正念というは、本弘誓願の信楽さだまるをいうなり。この信心うるゆえに、かならず無上涅槃にいたるなり。この信心を一心という、この一心を金剛心という、この金剛心を大菩提心というなり。これすなわち、他力のなかの他力なり。また、正念というにつきてふたつあり。ひとつには、定心の行人の正念。ふたつには、散心の行人の正念あるべし。このふたつの正念は、他力のなかの自力の正念なり。定散の善は、諸行往生のことばにおさまるなり。この善は、他力のなかの自力の善なり。この自力の行人は、来迎をまたずしては、辺地・胎生・懈慢界までも、うまるべからず。このゆえに、第十九の誓願に、諸善をして浄土に回向して往生せんとねがうひとの臨終には、われ現じてむかえんとちかいたまえり。臨終まつことと、来迎往生という