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いとまたまわるべし」と申す。すなわち御前をまかりたちて出門す。聖人のたまわく、「あたら修学者が、もとどりをきらでゆくはとよ」と。その御こえはるかにみみにいりけるにや、たちかえりて申していわく、「聖光は出家得度して、としひさし、しかるに本鳥をきらぬよし、おおせをこうぶる、もっとも不審。このおおせ耳にとまるによりてみちをゆくにあたわず。ことの次第うけたまわりわきまえんがために、かえりまいれり」と云々 そのとき聖人のたまわく、「法師には、みつのもとどりあり。いわゆる勝他・利養・名聞、これなり。この三箇年のあいだ源空がのぶるところの法文をしるしあつめて随身す。本国にくだりて人をしえたげんとす。これ勝他にあらずや。それにつきて、よき学生といわれんとおもう。これ名聞をねがうところなり。これによりて檀越をのぞむこと、所詮、利養のためなり。このみつのもとどりをそりすてずは、法師といいがたし。よって、さ申しつるなり」と云々 そのとき聖光房、改悔の色をあらわして、負のそこよりおさむるところの抄物どもをとりいでて、みなやきすてて、またいとまを申していでぬ。しかれども、その余残ありけるにや。ついにおおせをさしおきて、口伝をそむきたる諸行往生の自義を骨張して、自障障他する事、祖師の遺訓をわすれ、諸天の冥慮をはばからざるにや、とおぼゆ。かなしむべし、おそるべし。しかれば、かの聖光坊は、最初に鸞上人の御引導によりて、黒谷の門下にのぞめる人なり。末学、これをしるべし。
10一 十八の願につきたる御釈の事。
 「彼仏今現在成仏」(礼讃)等。この御釈に世流布の本には「在世」とあり。しかるに黒谷・本願寺両師ともに、この「世」の字を略して、ひかれたり。わたくしにそのゆえを案ずるに、略せらるる条、もっともそのゆえあ