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 鸞聖人東国に御経回のとき、御風気とて三日三夜ひきかずきて、水漿不通しましますことありき。つねのときのごとく、御腰膝をうたせらるることもなし。御煎物などいうこともなし。御看病の人をちかくよせらるる事もなし。三箇日と申すとき、ああ、いまはさてあらんとおおせごとありて、御起居御平復もとのごとし。そのとき恵信御房 男女六人の君達の御母儀 たずねもうされていわく、御風気とて両三日御寝のところに、いまはさてあらんと、おおせごとあること、なにごとぞやと。聖人しめしましましてのたまわく、われこの三箇年のあいだ、浄土の三部経をよむ事、おこたらず、おなじくは、千部よまばやとおもいて、これをはじむるところに、またおもうよう、「自信教人信 難中転更難」(往生礼讃)とみえたれば、みずからも信じ、ひとをおしえても信ぜしむるほかは、なにのつとめかあらんに、この三部経の部数をつむこと、われながらこころえられずと、おもいなりて、このことをよくよく案じさだめん料に、そのあいだはひきかずきてふしぬ。つねのやまいにあらざるほどに、いまはさてあらん、といいつるなり、とおおせごとありき。わたくしにいわく、つらつらこの事を案ずるに、ひとの夢想のつげのごとく、観音の垂迹として、一向専念の一義を御弘通あること掲焉なり。
12一 聖人本地観音の事。
 下野国、さぬきというところにて恵信御房の御夢想にいわく、堂供養するとおぼしきところあり。試楽ゆゆしく厳重にとりおこなえるみぎりなり。ここに虚空に神社の鳥居のようなるすがたにて、木をよこたえたり。それに絵像の本尊二鋪かかりたり。一鋪は形体ましまさず。ただ金色の光明のみなり。いま一鋪は、ただしくその尊形あらわれまします。その形体ましまさざる本尊を、人ありて、また人に、「あれはなに仏にてましま