巻次 - 672頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 18一 別離等の苦におうて、悲歎せんやからをば、仏法のくすりをすすめて、そのおもいを教誘すべき事。 人間の八苦のなかに、さきにいうところの愛別離苦、これもっとも切なり。まず生死界の、すみはつべからざることわりをのべて、つぎに安養界の常住なるありさまをときて、うれえなげくばかりにて、うれえなげかぬ浄土をねがわずんば、未来もまた、かかる悲歎にあうべし。しかし「唯聞愁歎声」(定善義)の六道にわかれて、「入彼涅槃城」(同)の弥陀の浄土にもうでんにはと、こしらえおもむけば、闇冥の悲歎、ようやくにはれて、摂取の光益になどか帰せざらん。つぎにかかるやからには、かなしみにかなしみをそうるようには、ゆめゆめとぶらうべからず。もししからば、とぶらいたるにはあらで、いよいよわびしめたるにてあるべし。酒はこれ、忘憂の名あり。これをすすめて、わらうほどになぐさめて、さるべし。さてこそとぶらいたるにてあれと、おおせありき。しるべし。19一 如来の本願は、もと凡夫のためにして、聖人のためにあらざる事。 本願寺の聖人、黒谷の先徳より御相承とて、如信上人、おおせられていわく、世のひと、つねにおもえらく、悪人なおもて往生す。いわんや善人をやと。この事、とおくは弥陀の本願にそむき、ちかくは釈尊出世の金言に違せり。そのゆえは、五劫思惟の劬労、六度万行の堪忍、しかしながら、凡夫出要のためなり。まったく聖人のためにあらず。しかれば、凡夫本願に乗じて、報土に往生すべき正機なり。凡夫もし往生かたかるべくは、願、虚説なるべし、力、徒然なるべし。しかるに、願力あい加して、十方のために大饒益を成ず。これによりて、正覚をとなえて、いまに十劫なり。これを証する恒沙諸仏の証誠、あに無虚妄の説にあらずや。しかれ 紙面画像を印刷 前のページ p672 次のページ 第二版p818~820へ このページの先頭に戻る