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せり。されば、平生のとき、一念往生治定のうえの仏恩報謝の多念の称名とならうところ、文証・道理顕然なり。もし、多念をもって、本願としたまわば、多念のきわまり、いずれのときとさだむべきぞや。いのちおわるとき、なるべくんば、凡夫に死の縁、まちまちなり。火にやけても死し、みずにながれても死し、乃至刀剣にあたりても死し、ねぶりのうちにも死せん。これみな先業の所感、さらにのがるべからず。しかるに、もし、かかる業ありておわらん機、多念のおわりぞと、期するところ、たじろかずして、そのときかさねて十念を成じ、来迎引接にあずからんこと、機として、たとい、かねてあらますというとも、願としてかならず迎接あらんこと、おおきに不定なり。されば第十九の願文にも「現其人前者」(大経)のうえに、「仮令不与」とら、おかれたり。仮令の二字をば、「たとい」とよむべきなり。「たとい」というは、あらましなり。非本願たる諸行を修して、往生を係求する行人をも、仏の大慈大悲、御覧じはなたずして、修諸功徳のなかの称名を、よどころとして現じつべくは、その人のまえに現ぜんとなり。不定のあいだ、仮令の二字をおかる。もしさもありぬべくはと、いえるこころなり。まず不定の失のなかに、大段、自力のくわだて本願にそむき、仏智に違すべし。自力のくわだてというは、われとはからうところをきらうなり。つぎには、またさきにいうところのあまたの業因、身にそなえんこと、かたかるべからず。他力の仏智をこそ、「諸邪業繫無能碍者」(定善義)とみえたれば、さまたぐるものもなけれ。われとはからう往生をば、凡夫自力の迷心なれば、過去の業因、身にそなえたらば、あに自力の往生を障碍せざらんや。されば多念の功をもって、臨終を期し、来迎をたのむ自力往生のくわだてには、か様の不可の難どもおおきなり。されば紀典のことばにも、「千里は足の下よりおこ