巻次
-
680頁
表示設定
ブックマーク
表示設定
文字サイズ
書体
  • ゴシック
  • 明朝
カラー
テキスト情報
本文
画像情報
画像情報
本文

「われはこれ賀古の教信沙弥 この沙弥の様禅林の永観の『十因』(往生十因)にみえたり の定なり」と云々 しかれば、縡を専修念仏停廃のときの左遷の勅宣によせましまして、御位署には愚禿の字をのせらる。これすなわち、僧にあらず俗にあらざる儀を表して、教信沙弥のごとくなるべしと云々 これによりて「たとい、牛盗とはいわるとも、もしは善人、もしは後世者、もしは仏法者とみゆるように振舞うべからず」とおおせあり。この条、かの裳無衣・黒袈裟をまなぶともがらの意巧に、雲泥懸隔なるものをや。顕密の諸宗・大小乗の教法になお超過せる弥陀他力の宗旨を心底にたくわえて外相にはその徳をかくしまします。大聖権化の救世観音の再誕、本願寺 親鸞 聖人の御門弟と号しながら、うしろあわせに振舞いかえたる後世者気色の威儀をまなぶ条、いかでか祖師の冥慮にあいかなわんや。かえすがえす停止すべきものなり。
4一 弟子と称して同行等侶を自専のあまり、放言悪口すること、いわれなき事。
 光明寺の大師の御釈には、「もし念仏するひとは、人中の好人なり、妙好人なり、最勝人なり、上上人なり」(散善義)とのたまえり。しかればそのむねにまかせて、祖師のおおせにも、「それがしは、まったく弟子一人ももたず。そのゆえは、弥陀の本願をたもたしむるほかは、なにごとをおしえてか弟子と号せん。弥陀の本願は仏智他力のさずけたまうところなり。しかればみなともの同行なり。わたくしの弟子にあらず」と云々 これによりて、たがいに仰崇の礼儀をただしくし昵近の芳好をなすべしとなり。その義なくして、あまっさえ悪口をはく条、ことごとく祖師・先徳の御遺訓をそむくにあらずや、しるべし。
5一 同行を勘発のとき、あるいは寒天に冷水をくみかけ、あるいは炎旱に艾灸をくわうるらのいわれなき事。