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生ず」となり。されば、「水火の二河」は衆生の貪瞋なり。これ不清浄の心なり。「中間の白道」は、あるときは行者の信心といわれ、あるときは如来の願力の道と釈せらる。これすなわち、行者のおこすところの信心と、如来の願心とひとつなることをあらわすなり。したがいて、「清浄の心」といえるも如来の智心なりとあらわすこころなり。もし凡夫我執の心ならば清浄の心とは釈すべからず。このゆえに『経』(大経)には、「令諸衆生功徳成就」といえり。こころは「弥陀如来因位のむかし、もろもろの衆生をして功徳成就せしめたまう」となり。それ阿弥陀如来は三世の諸仏に念ぜられたまう覚体なれば、久遠実成の古仏なれども、十劫已来の成道をとなえたまいしは、果後の方便なり。これすなわち、「衆生往生すべくはわれも正覚をとらん」とちかいて、衆生の往生を決定せんがためなり。しかるに、衆生の往生さだまりしかば、仏の正覚もなりたまいき。その正覚いまだなりたまわざりしいにしえ、法蔵比丘として難行苦行・積功累徳したまいしとき、未来の衆生の浄土に往生すべきたねをば、ことごとく成就したまいき。そのことわりをききて、一念解了の心おこれば、仏心と凡心とまったくひとつになるなり。このくらいに無碍光如来の光明、かの帰命の信心を摂取してすてたまわざるなり。これを『観無量寿経』には、「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」ととき、『阿弥陀経』には、「皆得不退転 於阿耨多羅三藐三菩提」ととけるなり。「摂取不捨」というは、弥陀如来の光明のなかに念仏の衆生をおさめとりて、すてたまわずとなり。これすなわちかならず浄土に生ずべきことわりなり。「不退転をう」というは、ながく三界・六道にかえらずして、かならず無上菩提をうべきくらいにさだまるなり。