巻次
858頁
表示設定
ブックマーク
表示設定
文字サイズ
書体
  • ゴシック
  • 明朝
カラー
テキスト情報
本文
画像情報
画像情報
本文

如来の願力の白道に乗ぜよ」となり。行者の信心にたとうというは、「衆生貪瞋煩悩中 能生清浄願往生心」(散善義)といえる、これなり。こころは「貪瞋煩悩のなかに、よく清浄願往生の心を生ず」となり。されば、水火の二河は、衆生の貪瞋なり。これ不清浄の心なり。中間の白道は、あるときは行者の信心といわれ、あるときは如来の願力の道と釈せらる。これすなわち、行者のおこすところの信心と、如来の願心とひとつなることをあらわすなり。したがいて、「清浄の心」といえるも、如来の智心なりとあらわすこころなり。もし凡夫我執の心ならば、「清浄の心」とは釈すべからず。このゆえに『経』(大経)には、「令諸衆生功徳成就」といえり。こころは「弥陀如来因位のむかし、もろもろの衆生をして功徳成就せしめたまう」となり。それ阿弥陀如来は三世の諸仏に念ぜられたまう覚体なれば、久遠実成の古仏なれども、十劫已来の成道をとなえたまいしは、果後の方便なり。これすなわち、「衆生往生すべくは、われも正覚をとらん」とちかいて、衆生の往生を決定せんがためなり。しかるに、衆生の往生さだまりしかば、仏の正覚もなりたまいき。その正覚いまだなりたまわざりしいにしえ、法蔵比丘として難行苦行・積功累徳したまいしとき、未来の衆生の浄土に往生すべきたねをば、ことごとく成就したまいき。そのことわりをききて、一念解了の心おこれば、仏心と凡心とまったくひとつになるなり。このくらいに無碍光如来の光明、かの帰命の信心を摂取してすてたまわざるなり。これを『観無量寿経』には、「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」ととき、『阿弥陀経』には、