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ききえて、生死出離の強縁、ひとえに念仏往生の一道にあるべしと、よろこびおもうこころの一念おこるとき、往生はさだまるなり。これすなわち、弥陀如来、因位のむかし、至心に回向したまえりしゆえなり」となり。この一念について隠顕の義あり。顕には、十念に対するとき、一念というは称名の一念なり。隠には、真因を決了する安心の一念なり。これすなわち、相好・光明等の功徳を観想する念にあらず。ただかの如来の名号をききえて、機教の分限をおもいさだむるくらいをさすなり。されば、親鸞聖人はこの一念を釈すとして、「「一念」というは信心を獲得する時節の極促をあらわす」(信巻)と判じたまえり。
 しかればすなわち、いまいうところの「往生」というは、あながちに命終のときにあらず、無始已来輪転六道の妄業、一念南無阿弥陀仏と帰命する仏智無生の名願力にほろぼされて、涅槃畢竟の真因、はじめてきざすところをさすなり。すなわちこれを、「即得往生 住不退転」とときあらわさるるなり。「即得」というは、「すなわち、う」となり。「すなわち、う」というは、ときをへだてず、日をへだてず、念をへだてざる義なり。されば一念帰命の解了たつとき、往生やがてさだまるとなり。「うる」というは、さだまるこころなり。この一念帰命の信心は凡夫自力の迷心にあらず、如来清浄本願の智心なり。しかれば二河の譬喩のなかにも、中間の白道をもって、一処には如来の願力にたとえ、一処には行者の信心にたとえたり。如来の願力にたとうというは、「念念無遺 乗彼願力之道」(散善義)といえる、これなり。こころは「貪瞋の煩悩にかかわらず、弥陀