巻次 第一帖 770頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 えり。この文のこころは、優婆夷この三昧をききてまなばんと欲せんものは、みずから仏に帰命し、法に帰命せよ、比丘僧に帰命せよ、余道につかうることをえざれ、天を拝することをえざれ、鬼神をまつることをえざれ、吉良日をみることをえざれといえり。かくのごとくの経文どもこれありといえども、この分をいだすなり。ことに念仏行者はかれらにつかうべからざるようにみえたり。よくよくこころうべし。あなかしこ、あなかしこ。文明五年九月 日10 そもそも吉崎の当山において、多屋の坊主達の内方とならんひとは、まことに先世の宿縁あさからぬゆえとおもいはんべるべきなり。それも後生を一大事とおもい信心も決定したらん身にとりてのうえのことなり。しかれば内方とならんひとびとは、あいかまえて信心をよくよくとらるべし。それまず当流の安心ともうすことは、おおよそ浄土一家のうちにおいて、あいかわりてことにすぐれたるいわれあるがゆえに、他力の大信心ともうすなり。さればこの信心をえたるひとは、十人は十人ながら百人は百人ながら、今度の往生は一定なりとこころうべきものなり。「その安心ともうすは、いかようにこころうべきことやらん、くわしくもしりはんべらざるなり。」 こたえていわく、「まことにこの不審肝要のことなり。おおよそ当流の信心をとるべきおもむきは、まずわが身は女人なれば、つみふかき五障・三従とてあさましき身にて、すでに十方の如来も、三世の諸仏にも、すてられたる女人なりけるを、かたじけなくも弥陀如来ひとり、かかる機をすくわんとちかいたまいて、すでに 紙面画像を印刷 前のページ p770 次のページ 第二版p931・932へ このページの先頭に戻る