巻次
第一帖
931頁
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てをまもるというは、わが流につたうるところの義を、しかと内心にたくわえて、外相にそのいろをあらわさぬを、よくものにこころえたるひととはいうなり。しかるに、当世は、わが宗のことを、他門他宗にむかいて、その斟酌もなく聊爾に沙汰するによりて、当流を、ひとの、あさまにおもうなり。かようにこころえのわろきひとのあるによりて、当流をきたなくいまわしき宗と、ひとおもえり。さらにもってこれは他人わろきにはあらず。自流のひとわろきによるなりとこころうべし。つぎに、物忌ということは、わが流には仏法について、ものいまわぬといえることなり。他宗にも公方にも対しては、などか物をいまざらんや。他宗他門にむかいては、もとよりいむべきこと勿論なり。また、よそのひとの物いむといいてそしることあるべからず。しかりといえども、仏法を修行せんひとは、念仏者にかぎらず、物、さのみいむべからずと、あきらかに諸経の文にもあまたみえたり。まず、『涅槃経』にのたまわく、「如来法中 無有選択 吉日良辰」といえり。この文のこころは、如来の法のなかに吉日良辰をえらぶことなしとなり。又、『般舟経』にのたまわく、「優婆夷、是の三昧を聞きて学ばんと欲せん者は、乃至 自ら仏に帰命し、法に帰命し、比丘僧に帰命し、余道に事うることを得ざれ、天を拝することを得ざれ、鬼神を祠することを得ざれ、吉良日を視ることを得ざれ」已上 といえり。この文のこころは、優婆夷、この三昧をききてまなばんと欲せんものは、みずから仏に帰命し、法に帰命せよ、比丘僧に帰命せよ、余道につかうることをえざれ、天を拝することをえざれ、鬼神をまつることをえざれ、吉良日をみることをえざれと