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第一帖
932頁
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いえり。かくのごとくの経文どもこれありといえども、この分をいだすなり。ことに念仏行者はかれらにつかうべからざるようにみえたり。よくよくこころうべし。あなかしこ、あなかしこ。

文明五年九月 日

(一〇) 抑も、吉崎の当山において、多屋の坊主達の内方とならんひとは、まことに先世の宿縁あさからぬゆえとおもいはんべるべきなり。それも後生を一大事とおもい信心も決定したらん身にとりてのうえのことなり。しかれば内方とならんひとびとは、あいかまえて信心をよくよくとらるべし。それまず当流の安心ともうすことは、おおよそ浄土一家のうちにおいて、あいかわりて、ことにすぐれたるいわれあるがゆえに、他力の大信心ともうすなり。さればこの信心をえたるひとは、十人は十人ながら百人は百人ながら、今度の往生は一定なりとこころうべきものなり。
 その安心ともうすは、いかようにこころうべきことやらん、くわしくもしりはんべらざるなり。
 こたえていわく、まことにこの不審肝要のことなり。おおよそ当流の信心をとるべきおもむきは、まずわが身は女人なれば、つみふかき五障三従とてあさましき身にて、すでに十方の如来も、三世の諸仏にも、すてられたる女人なりけるを、かたじけなくも弥陀如来ひとり、かかる機をすくわんとちかいたまいて、すでに四十八願をおこしたまえり。そのうち第十八の願において、一切の悪人・女人をたすけたまえるうえに、なお女人はつみふかくうたがいのこころふかきによりて、またかさねて第三十五の願になお女人をたすけんといえる願をおこしたまえるなり。かかる弥陀如来の御苦労