巻次
第三帖
811頁
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とももうすことはあるべけれ。この道理をよくよくこころえて、足手をもはこび、聖人をもおもんじたてまつらん人こそ、真実に冥慮にもあいかない、また別しては、当月御正忌の報恩謝徳の懇志にもふかくあいそなわりつべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

文明七年十一月二十一日書之

12 そもそも、いにしえ近年このごろのあいだに、諸国在々所々において、随分仏法者と号して、法門を讃嘆し、勧化をいたすともがらのなかにおいて、さらに真実にわがこころ当流の正義にもとづかずとおぼゆるなり。そのゆえをいかんというに、まずかの心中におもうようは、われは仏法の根源をよくしりがおの体にて、しかもたれに相伝したる分もなくして、あるいは縁のはし、障子のそとにて、ただ自然と、ききとり法門の分斉をもって、真実に仏法にそのこころざしはあさくして、われよりほかは仏法の次第を存知したるものなきようにおもいはんべり。これによりて、たまたまも当流の正義をかたのごとく讃嘆せしむるひとをみては、あながちにこれを偏執す。すなわちわれひとりよくしりがおの風情は、第一に憍慢のこころにあらずや。かくのごときの心中をもって、諸方の門徒中を経回して、聖教をよみ、あまっさえ、わたくしの義をもって、本寺よりのつかいと号して、ひとをへつらい、虚言をかまえ、ものをとるばかりなり。これらのひとをば、なにとして、よき仏法者、また聖教よみとはいうべきをや。あさまし、あさまし。なげきてもなおなげくべきは、ただこの一事なり。これによりて、まず当流の義をたて、ひとを勧化せんとおもわんともがらにおいては、その勧化の次第をよく存知すべきものなり。