巻次
第三帖
976頁
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おおせさだめおかれしところに、近代このごろのひとの仏法しりがおの体たらくをみおよぶに、外相には仏法を信ずるよしをひとにみえて、内心にはさらにもって当流安心の一途を決定せしめたる分なくして、あまっさえ相伝もせざる聖教を、わが身の字ぢからをもって、これをよみて、しらぬえせ法門をいいて、自他の門徒中を経回して、虚言をかまえ、結句、本寺よりの成敗と号して、人をたぶろかし物をとりて、当流の一義をけがす条、真実真実、あさましき次第にあらずや。これによりて、今月二十八日の御正忌、七日の報恩講中において、わろき心中のとおりを改悔懺悔して、おのおの正義におもむかずは、たといこの七日の報恩講中において、足手をはこび、ひとまねばかりに報恩謝徳のためと号すとも、さらにもってなにの所詮もあるべからざるものなり。されば、弥陀願力の信心を獲得せしめたらん人のうえにおいてこそ、仏恩報尽とも、また師徳報謝なんどとももうすことはあるべけれ。この道理をよくよくこころえて、足手をもはこび、聖人をもおもんじたてまつらん人こそ、真実に冥慮にもあいかない、また別しては、当月御正忌の報恩謝徳の懇志にもふかくあいそなわりつべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

文明七年十一月二十一日、之を書く。

(一二) 抑も、いにしえ近年このごろのあいだに、諸国在々所々において、随分仏法者と号して、法門を讃嘆し、勧化をいたすともがらのなかにおいて、さらに真実にわがこころ当流の正義にもとづかずとおぼゆるなり。そのゆえをいかんというに、まずかの心中におもうようは、われは仏法の根