巻次
第三帖
977頁
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源をよくしりがおの体にて、しかもたれに相伝したる分もなくして、あるいは縁のはし、障子のそとにて、ただ自然と、ききとり法門の分斉をもって、真実に仏法にそのこころざしはあさくして、われよりほかは仏法の次第を存知したるものなきようにおもいはんべり。これによりて、たまたまも当流の正義をかたのごとく讃嘆せしむるひとをみては、あながちにこれを偏執す。すなわちわれひとりよくしりがおの風情は、第一に憍慢のこころにあらずや。かくのごときの心中をもって、諸方の門徒中を経回して、聖教をよみ、あまっさえ、わたくしの義をもって、本寺よりのつかいと号して、ひとをへつらい、虚言をかまえ、ものをとるばかりなり。これらのひとをば、なにとして、よき仏法者、また聖教よみとはいうべきをや。あさまし、あさまし。なげきてもなおなげくべきは、ただこの一事なり。これによりて、まず当流の義をたて、ひとを勧化せんとおもわんともがらにおいては、その勧化の次第をよく存知すべきものなり。
 夫れ、当流の他力信心のひととおりをすすめんとおもわんには、まず宿善・無宿善の機を沙汰すべし。されば、いかにむかしより当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機は、おのずから信を決定すべし。されば無宿善の機のまえにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かえりて誹謗のもといとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もってのほかの当流のおきてにあいそむけり。されば『大経』に云わく、「若人無善本 不得聞此経」とも